首都江戸の誕生—大江戸はいかにして造られたのか

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首都江戸の誕生—大江戸はいかにして造られたのか (角川選書)
首都江戸の誕生—大江戸はいかにして造られたのか (角川選書)大石 学

角川書店 2002-10
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都市と農村、という対立軸(あえてこう書く)を習った、というか意識したのは、中学の社会科の授業だったように思う。
始めて府立図書館へ資料を探しにいったのもこの頃で、研究授業で友人と一緒にOHPを使った発表をやった。
農村から都市への食糧と労働力の供給、三チャン農業、農業の機械化、そんなテーマだった。



私は都市で生まれ育って、今は片田舎ーー郊外で家主業をしている。
それで最近、賃貸住宅というのは本質的に都市で成立するものだ、という認識を強くしているのだが、それが


○第一次産業の事業承継上の問題
○地方の寸に合わない都市計画
○相続税上の問題


のために、本来ならそぐわない場所に、どん! とそぐわない規模の賃貸住宅が建ったりしている。うちなんかその典型だ。


本当は都市から田舎に至る軸線上で、評価の仕方も適した住宅もスライドしていくのが順当な気がする。念のために書いておくが、スライドとか軸とか書いてるのは、優劣ではなく、形態や手法の最適化方向が異なっているってだけ。

そういうわけで都市論も気になる今日このごろ、歴史趣味もあいまって手にとったのがこの本。



首都は明治に京都から東京へ、というのが一般的な受け止め方。
それをこの本は首都を「政治・行政の中枢的管理機能が集中する地域」と定義づけた上で江戸の首都機能の発達を語る。


江戸という都市を語った本はいろいろあるのだけれど、その多くは江戸時代後期のソレーー化政以降であることにお気づきだろうか?
江戸時代の多くの期間は今イメージする完成された江戸の姿とは違っている。


ではどのように江戸という都市が整備されてきたのか、ということにほとんどの紙幅が費やされているのだが、それは新鮮な事実の連続だった。


家康の江戸入城当時寒村であった、というのは完成された江戸からの対比であって、まぁ当時の普通の城下町。関八州を統べるための近世城下ーー家康はすでに安土や京・大坂で近世城下の一つの方向性を既に見ているーーとしては、当然未整備。
そこからの出発なわけだが、そうしてみると誕生期の江戸という都市は織豊の城下町整備とはかなり指向が違っている。
本書の記載で当初の重臣屋敷の配置を読むと、用語こそ「屋敷」だが実質的には本城からの距離といい、機能といい「出城」そのもの。それが本城&本城下の発展により、飲みこまれていったという印象である。



また、各町の木戸が既に慶長期に見られるという記載。
木戸は古くから町あるいは村を他所から隔てるための防御施設として広く見られる。
江戸期の木戸は自身番と一体となって、町の自警拠点となっていたが、上記の重臣屋敷配置と併せて読むと、そのルーツは中世・戦国の木戸であるように思う。



最初期の江戸は、乱世の城としての性格を色濃く残しているのである。
保守的・現実的な家康の性格が読みとれて面白い。



江戸が関八州の首府から、天下の首都となったのは関ヶ原の後、家康が「大坂か江戸か」を秀忠に諮問し、江戸を選択したときだそうだ。


時代別に江戸の地図をスライドショーにしてみたらきっと面白いだろうなぁ。

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コメント(3)

興味深い本のご紹介を有難うございます。中身のお話は読んでからとして、思うのは”江戸”の話をするときに、多くは完成された幕末の江戸だということです。仰るように、江戸初期、中期、末期では大きくことなる、特に消費経済(例として外食、飲み屋や、賃貸住宅、口入屋、、貸衣装、損料屋などのレンタル)が事業として成り立つようになった末期の変化は大きいのだと思います。 それだけに、色々なビジネスチャンスもあって、一旗挙げることができるような江戸を、明治末の人の口伝えで聞いているので、この印象が東京の人間には大きいのだと思います。>当初の重臣屋敷の配置を読むと、用語こそ「屋敷」だが>実質的には本城からの距離といい、機能といい「出城」>そのもの未だに**見附という、堀、石垣、門の後があり、江戸期の屏風絵を見ると、各大名上屋敷も櫓を上げ要塞としての構造なのですね。 雰囲気で言えば、大阪近隣に見られる”日蓮宗”の寺院を大規模にしたものだと思います。一方で、郊外に下屋敷として、泉水を配置して自然を取り込んだ屋敷が存在したのも、江戸の特徴だと思います。当時でも、小要塞に住むのは嫌だったのでしょうね。明治になって上屋敷は巨大オフィスビルに変わり、下屋敷は高級住宅地や公園に変わったのも面白いと思います。

>色々なビジネスチャンスもあって、一旗挙げることができるような江戸を、明治末の人の口伝えで聞いているので、この印象が東京の人間には大きいのだと思います。なるほど! です。そういえばウチの村で「大洪水で村ごと流された」という言い伝えがあります。姑とか村の古老の口ぶりでは、「最近」=「江戸後期〜末期」だったのですが、記録を当たってみると江戸時代初期の話でした。強烈な印象を持つ事件なので、時間的に近い出来事であるように語られたみたいです。>当時でも、小要塞に住むのは嫌だったのでしょうね。なんだか微笑ましくて、頬が緩みました。伊達家の「品川様」はある意味シアワセだったのかもしれません。>上屋敷は巨大オフィスビルに変わり、下屋敷は高級住宅地や公園に変わったのも面白いと思います。 それは面白いです!

江戸初期の伝承が伝わっているのは、それだけ住みやすい土地で定着率が良いのでしょうね。”首都江戸の誕生”を読み終わりました。時代とともに発達した江戸ですが、その場しのぎでなく、それなりに都市計画があったのですね。(特に大岡越前の防火対策)合わせて、”江戸のなりたち”(迫川吉生、新泉社)全2巻も読みました。これは写真や図面も多く、結構楽しい本です。 江戸の誕生で“牡蠣殻拭き”が出てくるのですが、江戸のなりたちには、実際の出土例や写真が紹介されておりました。 もうひとつ興味深いのは、江戸の住宅には武家も町やも、地下室(蔵?)が多かったことです。やはり土地の利用率を上げるためと、火災対策なのだと思います。昨今、建築基準法見直しで、半地下が増えましたが、江戸にも起源があったようで面白かったです。ちなみに、神田明神前にある甘酒屋”天野屋”には、今も地下室があり発酵用の室として使われています。これも江戸からあるものだそうです。

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このページは、が2008年9月12日 23:00に書いたブログ記事です。

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