読書録〜大岡裁きの法意識

| コメント(4) | トラックバック(1)
「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人



私が法律に興味を持ったのは、この「大家」という仕事を始めてからで。
大学時代に法律の授業はあったから受けたけど寝てました。
何度かこの日記にも書いているけれど、ウチは旧地主系の大家なので借家も借地もけっこうな数があるわけです。
そうするとそれなりに紛争もありまして、古くは小作争議(もちろん私は知らない)、昭和のころは地代調停、近くは滞納者の追い出しに敷金紛争、とけっこう裁判所の御世話になることが多いです。
だから、企業の法務担当者ほどじゃないけれど、法律も裁判所も割と身近です(但し分野限定)。


でもやっぱり
「できるだけ御世話になりたくない!」
という意識はあるんですよね。権利権利とふりかざすのも、ふりかざされるのも正直嫌いやし。費用もかかるし。
昨今の敷金とか賃貸契約上の紛争に関しても、「理屈はわかるが、それだけでいいのか?」と、心のどこかで思っている自分がいる(^^A
特に、現実の場ではロジックよりもメンタルな面が重要な局面も多々あるのを経験しているだけに。


そこでふと本屋で目にとまった、
「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人
読んでみました。
読んで初めて意識ましたが、近代から現在の日本の法律は西洋法なんですね。
明治維新時にまずフランス法およびドイツ法を輸入して、まず形から入ったんだそうです。イギリス法という選択肢もあったけれども、形から入るには判例法は敷居が高かったんだそうで。


ところが法に対する意識としては、平成の今も「法のお世話になる」ことを恥のように受け止める人は多いし(現実には法の枠組みの中で社会生活をしているので、その感覚自体が論理的にはつじつまがあわないのだが)、裁判所は多くの人にとって遠い存在であり、「大岡裁き」が今でも司法の理想として語られる。


 著者の記述を引用します。


----------------------------------
「明治時代に継受された西洋法の体系も、日本社会にしてみれば、いわば突然身にまとうことになった洋服のようなものである。日本の社会、いや世間という「肉体」に、西洋流自己責任の体形の衣類を隅々までフィットさせることは、一朝一夕で可能なことではない。
近年の自己責任論の盛り上がりは、そのような長い歴史的スパンで眺めるべき現象だとわたくしは考える」
「西洋法という洋服をようやく自然に着こなせるようになった世代からバトンタッチされたわれわれは、しばらくその外形の心地よさに安心しきっていたが、日本の経済的繁栄が終焉し、同時に、日本社会の価値の混乱がさらけ出される時代を迎え、ついに外形ではなく体質(血肉)の改善が課題にされざるを得なくなったと言えよう」
-----------------------------------



なるほど……言い当て妙。うまい例え。
羽織袴のサムライが、髷を切り、慣れぬ洋服を着ていたのが、今や日本人は洋服を自家薬籠中のものにして、日本発のファッションもある。
これと同様に、法意識も変わってゆく。その過程なんだ、ということですね。



で、前近代(江戸時代)の日本の慣習法の場合、三権が分立してないので、同じ機関が捜査して裁く。司法の機能を行政が果たしてきたわけで、今も日本人には「お上による保護とお上に対する国民の依存」という強固な体質がある、と著者は言います。
私はこの「行政」に加えて「共同体」も挙げたいです。地縁血縁で構成される共同体です。
私もこの本で初めて知ったんですが、江戸時代のお白州には、里老だとか、大家だとか、共同体の代表者が同席するんだそうです。そして西洋法の受容とともに、いくつかの段階を踏んで法廷から姿を消す。
考えてみれば、前近代には、共同体が主体になる行為がけっこうあります。
年貢の「村請け」。江戸時代の借家で契約附属書類(管理規則とか)の差し入れ先が大家でなく「丁(町)」だったり。
極めつけが中世法の「国質」——「支払人が住む国や郷の人々が連帯保証する国質(くにじち)や郷質(ごうじち)、特定の商業都市において出会った第三者からの債権取り立てを認める所質(ところじち)などの債権保全策(http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/feature_11.htmより引用)」
今でもけっこう、ムラの揉め事はまず顔役に相談、というところは多いと思うんですよね。ウチのムラもそうやし。



共同体と法とのバランスが……と書きかけてストップ。
これも対立軸で書くのも、なんか変よね??
頭の中が問題提起だらけで消化不良状態です。でも面白かった!

トラックバック(1)

トラックバックURL: http://www.o-yasan.jp/mt/mt-tb.cgi/911

「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人 (光文社新書)/青木 人志


¥735
Amazon.co.jp


『大岡裁きの法意識』


日本で使用されている「権利」(Rightなどの訳語)という語からは欧米では日常的に了解されている「正」や「直」という意味が脱落しているという指摘が 続きを読む

コメント(4)

興味ある本のご紹介を有難うございます。私も、個人的興味で法制史を学んでいるのでさっそく買ってみようと思います。私なるの意見では、江戸期の大岡裁きは、法ではなく理(ことわり)によるものなのだと思います。 法の性質は時、所、対象を問わず同じであることを求めますが、江戸時代の判決は男女、年長、身分などにより全く判決が異なります。例として、夫の不正を訴え出た妻が、夫に不義という理由で処罰される。 逆に、現在のように明らかに問題だが法無きが故に罰せずということが無いという利点もあります。 この辺り、法は明示され、等しく、遍く適用されるという近代法の考えとは全く異なります。実は、似たような状況は、お隣 中国に存在します。中国でビジネスを行なう人々が言うのは、法治国家ではなく放置国家、法治主義ではなく合理主義(笑) 一応、法律、法令はあるのですが、これが良く変わるし何が最新かは、中々理解できません。でも問題なく運営できるのは理によって運営するからです。地方自治体で、予算が足りなくなると、突然 新たな税が出来て、企業に集めにくる。法治主義をもってなる日本企業は払いますが、現地に通じた企業は 交渉し値切ると値切れるのです。 これを値切るのが現地コンサルや弁護士の重要な仕事です。何をもって値切りを認めるかと言えば、”理”があるかなのです。現地人も多く雇用し、新税を払うと赤字で撤退せざるを得ないとなれば、その理により値切れる、払わないで良い。 撤退しなければ、現地の人も、企業も、政府を嬉しい三方丸く収まる。この話を聞いた時に、何となく大岡裁きを思い出しました。

外資社員さんには、きっと御反応いただけると思っておりました(笑)>似たような状況は、お隣 中国に存在しますこのあたり、著者は過去の法文化論の紹介の中で、東洋の徳治主義として紹介してました。>中国でビジネスを行なう人々が言うのは、法治国家ではなく放置国家、法治主義ではなく合理主義(笑)なるほど〜、確かに「徳」じゃなくて「理」ですね……(感心)。rightじゃなくてreason?「理」のバックグラウンドにある共通認識をどう考えるかも面白い部分ですね。卑近なところでは、大阪東京の比較から、比較文化論は昔から読むのが大好きです。

興味あるネタをご用意頂き、有難うございます。(笑)>なるほど〜、確かに「徳」じゃなくて「理」ですね……思うに徳というのは、理を適用することだと思うのです。利害がぶつかり合う中に、特により理を明らかにするのが、東洋的な裁きなのではと思っております。>rightじゃなくてreason?私が、中国語を習って関心した事項に、”権利”と”権力”、日本語と同字同義ですが、中国語では発音が2つとも同じ。先生に区別できないと不便ではと聞くと、”権力なき所に権利無し!と言われて、納得してしまいました。 西欧的な生まれもっての権利というのは、概念として無いというか、論じても意味が無いようです。だからこそ、統治者は徳を以って理を明らかにするのが大事なようです。

は〜。なるほど〜。感心すると同時に、理屈の世界の西洋的な概念とは全く別に、思わず納得してしまいます……。漢方理論をかじったときに思ったのと似たような……。

コメントする

管理人

ヨメに来たら賃貸住宅のお世話がくっついてきた! 大家の立場で賃貸裏話を発信中!

最近のコメント

Photo

  • 2011 04 30_0016.JPG
  • xy3qi.jpg
  • 80tqm.jpg
  • 67806296.jpg
  • ua1wv.jpg
  • driwf.jpg
  • 2010 10 10_9697.jpg
  • _S8O0642.jpg
  • 2010 10 10_9694.jpg
  • _S8O0096.jpg

このブログ記事について

このページは、が2006年11月15日 15:33に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「年賀状準備と改装チェック」です。

次のブログ記事は「メゾン一刻」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。