「白達記」によると、秀宗の宇和島入府に先立って、白石宗直が宇和島城を受け取りにいったとある。
無事に秀宗に城を渡し、尼崎まで戻ったところで、夏の陣の陣触れを聞いた。んで、急な陣触れなので人数も揃わないだろうと、政宗を草津まで迎えにいった。
大阪の陣、道明寺の戦いの前に、白石宗貞の小旗持ちが、成実の小旗持ちを追い抜いた。
成実「そこもとの九曜紋は前に出すぎている。後に下がれ」
宗貞「戦陣でカッコつけてる場合か」
成実「今日の先陣は儂だ。聞き入れぬなら、殿に申しあげるほかない」
宗貞「あなたもご存知のとおり、我が白石家の旗は、宗実の代からよその旗の後になったことはない」
で、互いの兵士が刀に手をかけ、あわや、というところで、宗貞の重臣が
「今は大事のときだ。そんなんやってるばあいとちゃうやろ」
と双方を説得した。
と、なかなかオモロイエピソードなので小説に頂戴しようと思った。
後半、成実との論争については、すでに江戸期から、「大阪の陣に参加してるなら、宗貞じゃなくて宗直じゃないの?」という疑問がだされてる。
で、一応治家記録をチェック。
すると、白石宗直が全然でてこないの。
夏の陣のときは、冬の陣のあと、兵士がみんな仙台に帰っていた。それであとから東海道を追っかけてきて、治家記録は「いつだれそれが着いた」とけっこう細かく記してる。でも出てこない。
夏の陣の陣立ても、大きな備えをたてているのは片倉、亘理、成実の3隊。あとは鉄砲隊を指揮したり、人数だけ使わした家も多かったようだ。
茂庭、石川あたりは陣立てには出てこないけど、家中のだれそれが首をいくつとった、という記載が出てくる。が、総じて、片倉オンパレード(^^ゞ
もちろん、立場的制約はあるものの一応いろいろ考証した治家記録と、単なる伝承を記した白達記は史料としての信頼性はかなり差がある。
どこまでどっちを信用するかは置いといて、このような話が白石家中で広範にひろまった、というあたりがオモロイ。

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