伏見屋敷

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ソースのわからない成実の伏見屋敷。
近い記述としては「世臣家譜」の「帰朝して後は伏見邸にあり」なのだが。

政宗の伏見屋敷拝領は文禄2年秋。聚楽屋敷は造営中。
しかし正月の祝いは文禄3,4年とも聚楽屋敷なので、京での本拠はこちらとみていいだろう。
文禄4年8月に秀次事件に対して重臣連署の誓詞が出されてる。
このときに政宗の伏見屋敷・家臣屋敷を拝領。(文禄2年拝領のものと別かどうかはわからん)
で、この年の秋から冬にかけて、重臣の妻子を伏見に上らせている。
伊達屋敷敷地内の長屋などに住んだのでは、と思う。


帰朝〜秀次事件までのブランクに、成実は聚楽と伏見のどちらにいたのか。
ところで成実正室玄松院は文禄4年6月に伏見で没。
いくらなんでも6月を秋とは言うまいから、「伏見」というのをそのまま信じると他の重臣たちとは少し扱いが違う。夫人が伏見にいる、ということは成実も伏見というのが自然だろうし。
すると、聚楽(政宗)−伏見(成実)という構図も成り立つかな。受け持ちとして。

亘理訴状の記載からは、政宗の岩出山下向に成実も同行しているように読める。

んで遠藤文七郎が文禄3年4月に京都で没しているが、場所は聚楽屋敷でも伏見屋敷でもなく、「室町の旅亭」。……なんでやねん。屋敷に入りきれない連中は間借りを?? でも遠藤ほどの者が、とちょっと不思議。
文禄4年死亡の小梁川盛宗は「京都で」死亡とある。この時代に伏見を「京都」とはたぶん言わないだろうから、聚楽か、もしくは文七郎と同じように旅亭かな、と想像してみる。

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このページは、が2005年4月11日 20:34に書いたブログ記事です。

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