石川義宗の家督時期について

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 石川義宗の家督時期については、治家記録に慶長8年とあり、一応これが定説になっているようである。
 以前書いた小説「tears of Mars」のあとがきで、文禄4年の重臣連署誓詞を引き、この時期にはすでに家督後なのではないかと疑問を提示した。
 ところが、天正18年8月13日付石田三成・長谷川秀一→石川義宗の石川氏の所領安堵に関する書状が存在する(伊達家文書531)。また所領安堵に関して、政宗に浅野弾正への取成しを頼んでいるのも義宗(伊達家文書614)。
 天正18年8月初旬まで石川昭光は、政宗・成実の指示により大里城攻撃の主将を務めており、石川氏の軍事行動は伊達氏の指揮下に入っていたと考えられる。
 独立大名としての石川氏をとらえる場合、これは明らかなウィークポイントであり、大里城からの撤退を機に義宗の活躍が目立つようになるのは、石川氏の独立性を強調するための行動ではないかと思われる。
治家記録によると、政宗から知行を受け、松山→角田と移っているのは昭光の方。でも一方で義宗も別に200貫文の知行をうけていたらしい。天正末〜慶長8年までは政宗書状のあて先も昭光・義宗の連名が多い。
 石川氏内部での政権構造に興味のわくところである。

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このページは、が2005年1月14日 22:54に書いたブログ記事です。

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