出奔話をまた書いたりなんぞしちょります。
しかし、成実の出奔については、文禄4年説と慶長3年説がございます。
「郷土わたり」に紹介されている資料によると(「亘理物語」というのが原典らしい)、成実が浅野長政を頼っていますが、これって文禄4年か慶長3年かでまったく意味が違ってくるよ……。成実がかけこんだから政宗と絶交になったのか?なんて妄想もしてみたりして。
つまり、文禄4年の出奔だと、政宗と長政の絶縁が、成実の出奔より前か後か、という問題が発生するんですな。
慶長3年だと確実に後ですが。ちなみに治家記録は慶長3年説で、角田収去を「これ以降」としとります。でもその根拠の記載はなし。
このあたり石川家の動きと合わせて細かい年表作ってみたほうがいいかも。
「石川一千年史」どこで読めるか探してみよう。
文禄4年出奔で、角田事件が慶長3年以降とすると、城主不在の状態が3年余続いたことになりますので、この不自然ざを「出奔事件は政宗ー成実の共謀だ」という説まであります。
直江の養子で30万石云々の件については、「世臣家譜」に養子の件には触れないものの「1説に30万石という」という記載がありますから、亘理家中で伝えられた話のようであります。
先述の「亘理物語」もどうやら伊達市に原本があるようなので、亘理家中の誰かの作なんでしょうな。
「今の上杉家は家来筋である」と啖呵を切る成実と、30万石に乗り気になるものの徳川に阻まれる成実って矛盾してますね(笑)
啖呵を切るほうが後づけ(間接的に仙台藩をヨイショ)な気もしますが、「直江の養子」というのもにわかには信じがたいっす。

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